思った事を走り書き4



僕らはグラデーションの中で生きている
ちょうど生活の中のグラデーションなんてことを考えていた時、燃え殻さんの本でこの言葉に出会いました。
まさにです。
そしてそのグラデーションが、最近はとても好きです。

分かりやすい例で言うならば、1日の変化。時間なんて人が勝手に区切っているだけで、朝と昼に、昼と夜に明確な線引きはありませんね。
それでも僕らは線を引きたがる。
ここから先は神奈川県です。こちら側は東京都です。
ここまでが自分の国であちら側は違う国。
お金が貰えたり貰えなかったり、そこに居られたり居られなかったり。
ちょっとした違いがあるだけで本質的には変わらないのに、線を引いては区別をしています。


物事を細分化、カテゴライズすること。それは合理化へ繋がり管理することを容易にします。
未成年はお酒を飲んではいけません。
本当は年齢ではなく身体機能の発達具合によって判断を下すべきところでしょうが、当然それは人によって違うし、そこで一人一人をチェックするに膨大な時間とコストが掛かりますね。
だから一括で括れるように20歳という線引きをした。
同じような事は日常茶飯事で、ざっくり言えば、そうしないと生活が成り立ちません。

でも実際には未成年でもお酒を飲んでいたり、”そうゆう話にはなっているけど、でもまぁねぇ、、”みたいな感じで進んでいくことって多いですよね。
それが何かの不正に繋がっているであれば正すべきだと思うのですが、曖昧さを悪者にして合理化や明確さ一直線に突き進むのも違うと思います。


そもそも人間なんて曖昧な生き物だし、どこまでが自分でどこからが自分じゃないのかも分からないと考えています。
曖昧で要領を得なくて、何が言いたいのかさっぱり分からない話は敬遠されがちですが、その伝わらなさや意味が分からない部分にこそ本質が見える事もあります。
それは”意味が分からない曖昧さ”が本質であるということもあれば、今自分たちが使っているツールでは伝えられない事が山ほどあるという事でもあります。

気持ちや考えを伝える為には言葉がいいのか、音楽にした方が伝わるのか、絵で表現してみたらどうか、物語が必要か、あるいは表情一つで全て伝わる事もあるでしょう。

そもそも自分のことをどこまで正確に把握できているのか、それすらも分かっていない様に思いますし、こうして書いていながらも何か言いたいんだかよく分からなくなってもきます。

それは単純に、もっと考えをまとめてから書けということかも知れませんが。


合理化はとても便利で僕もその恩恵にどっぷり浸って生活はしていますし、日々増える”分かりやすい”に頼る事も多いです。
それでも僕らにはまだまだツールが足りなくて、曖昧なグラデーションの中にしか見出せないものが多くあるはずです。
いつかそれらも全て解析され、自由に手に取ってコントロールできてしまう日が来るのかも知れませんが、今のところ僕らはまだ、グラデーションの中に生きています。



のぐち



バーイ