思った事を走り書き3




渋谷の公園通りを駅とは反対側に歩く。

右手にはマルイのビル。その壁に大きくデュア・リパの宣伝ポスター。
グラミー賞を取り話題になったからでしょうか、デュア・リパ本人には何の罪もありませんが、それが消費の象徴に見えてしまい少し気分が落ちました。
海外で流行ってる若いアーティスト。本人の事もよく知らずに何となく流行りに乗って、ファッション的に消費し消費され、1.2年もすれば懐かしい人。
もちろん実際にデュア・リパがどうなるかは分かりませんが、これまで何度も繰り返されてきたお馴染みの流れに見えたからです。

渋谷という街は異常なほど消費を促進する場所であり、消費、回転、新しいものが常にもてはやされ(少なくとも価値観の中で大きなウェイトを占め)ているように感じますね。ライブの時くらいしか行かないので、なかなか慣れません。
懐古趣味のつもりはないですし、新しいものもそれなりに好きです。それでもそれを煽ることの胡散臭さったら。
流行りなんて実際は誰かに作られていることが多いので、”あなたの為ですよ”、”あなたの役に立ちますよ”と謳っていたって、結局自分がオイシイ思いをしたいだけだったり。

アーティストにしろ商品にしろ、新しいものを発掘、開発して売る(または世の中に還元する)ことで対価を得る。それは当たり前の仕組みで間違ってはいないと思うのですが、果たしてそれが本当に必要なのか、検証するスペースが非常に狭くなっている様な気がします。
自ら消費するのではなく誰かに(あるいは自分自身を)消費させられる。
そしてその消費活動の裏では、他の誰かが泣いている事も珍しくありません。

とは言え、それでも人は常に消費しなければ生きていけないのもまた事実です。
お金だってもともとは物々交換出会ったのが金や銀などに変わり、やがては硬貨や紙幣となりましたが、結局何かに価値を持たせて、それを誰かか保証し、食べ物などの必要な物資に変換する仕組みはずっと変わっていません。そこに格差が生じる事も。
そして食事を通じて常に他の生物の命を消費し続けてもいます。

そうゆう意味では今の社会が云々〜ではなく、元々そうゆう生き物、というか生き物とはそうゆうもの、なのかもしれませんね。
食物連鎖。
人間が頂点だと勘違いしそうになりますが、場所や環境、時代が変われば消費される側になることも当然あり得ます。
映画ジョーズのようにサメに食べられたり、松島さんのようにライオンに。とか。


そんなことをポツポツ考えてると、何となく、進化しているのはテクノロジーだけで人間は大して変わってないんだなぁ、なんて思います。
作家のカート・ヴォネガットが著書の中で、ビル・ゲイツの「あなたのコンピュータの成長を暖かく見守って下さい」との言葉に対して「成長しなくてはならないのは人間だ。バカなコンピュータなんて放っておけ」と言ってたのを思い出しました。
極端ではありますが、無視できない言葉です。


また、資本主義では常に成長を強いられます。でもそれが健全なのか疑問が残りますね。
成長しなくたっていいじゃん。別に。少なくとも数字の上での成長は際限がありません。
終わりのないマラソンは辛いですよね。

そんな訳で今回はデュア・リパから始まって消費と成長の話になってしまいました。思ったことを走り書きですから、話が逸れたり、結論が出なかったりするのは当たり前くらいの気持ちで読んでもらえたら嬉しいです。



考えすぎでしょうか?
いや、そんな事はないと思っています。みなさんもそれぞれ、自分にしか見えない糸で繋がったAからBへの思考の跳躍があるのではないでしょうか?
なかなか他人に話す機会はありませんし、実用的でない話が多いように思います。
でもそれを共有するのって実はすごく大事な事だと思いますし、そうゆう話を聞くのも面白いです。
なかなか伝えるのは難しいですが、機会が増えるといいですね。


ちなみに公園通りをもう少し進むとタワーレコードがあって、そこにはaikoの新譜「どうしたって伝えられないから」の大きなポスターが。
どうしたって伝えられない事、あるよなぁ。1曲も聴いてないのに少し共感。単純ですね。
この、どうしたって伝えられない複雑さや繊細さと、簡単に共感してしまうような単純さを併せ持っている複雑さがいいですね。





のぐち


バーイ