思った事を走り書き

甥っ子が産まれました。二人目です。
姉の第二子で、一昨年産まれた長男に続きまた男の子。’みてね’というアプリで頻繁に写真や動画が共有されてくるのですが、当たり前に可愛いですね。
子供は割と好きですし(但し接し方がイマイチわからない)、あまり責任を感じる事のないおじさんというポジションも相まって可愛さ倍増です。
好きなだけ甘やかして良くない事もたくさん教えようと思ってます。
彼等を見ているとつい’可能性は無限だなあ’なんて思ってしまいますが、これもまた、無責任といえば無責任ですね。
当然本人にはそんな自覚はないし、勝手な期待とも言えると思います。
そして僕自身もかつて’可能性は無限’であったんだなと思います。
もちろん今でもそうなのかも知れませんが、相変わらず自覚はないです。
それでももっと上の世代の人に言わせれば’まだまだ何とでもなる’年齢だったりする訳で、可能性ってのは有るにしろ無いにしろ自分ではなかなか気付けないもの、やってみなきゃ分からないし、その可能性に気付いた人が大成するんだろうな、なんて事をぼんやり考えてます。
こうやって書き出してみると、当たり前すぎて何を今更って感じですね。
なるべく俯瞰して見るように心掛けつつも、いつだって手探りでしか進めないなと改めて思いました。
本当の答え合せは死ぬ時なので、それまでは見えないままにまさぐって、たまたま引っ掛かった何かをフル活用していくしかありませんね。
あと最近、でもないですが、ある時から’正義’という言葉が嫌いになりました。
理由は単純で、正義とは悪があって初めて成り立つものだからです。
正義を語る人、主張する人、あるいはそれに則り行動する人。無意識であってもみんな悪を必要としていて、これは構造的な問題だと思います。
そうであれば、信念がどうとか法律的にどうとか、そういったことは関係ありません。
分かりやすい二項対立で、所謂自粛警察が顕著な例ですね。
二項対立との言葉通り、分断を煽る材料になりますし、その不寛容さが嫌なんですね。
とはいえこうやって不寛容さが嫌といえばそれ自体が不寛容とも言えなくもない。
それでもやっぱり’正義’という言葉を口にする人に対して反射的に警戒してしまいます。
結局この話は堂々巡りで結論は(少なくとも僕には)出せませんが、それでもいいと思ってます。例えば螺旋階段の様にぐるぐる回って、元の位置に来たけど前より少し高いところにいる(あるいは低いところでも)でいいんじゃないかなと思います。
縦横斜め、様々な角度から眺めたり、時には引いて時には寄って、それでも見落としてしまう部分があるって事を頭に入れつつもそれでも見えているところだけを見てしまう今日この頃です。
結局、なるべく俯瞰して見るように心掛けつつも、いつだって手探りでしか進めないなと改めて思いました。
という訳で同じところに戻ってきましたね。
上がったのか下がったのか。螺旋階段。ワーオ!
のぐち
最近はミシマ社という出版社にハマっています。本好きの方は要チェックですよ。
バーイ!